[00:01.48](三) [00:03.96]ディスレクシア、学習障害の一種。 [00:09.94]知能水準は平均に達していながら [00:12.86]文字を正しく理解しない症状。 [00:16.42]ディスレクシアにとって [00:18.34]文字は水面にこぼれた油のように映るという。 [00:22.97]私の耳はそれに近い [00:27.06]生まれつき音の美しさが分からない。 [00:31.83]音に頼る情報を [00:33.71]情報として理解できない。 [00:36.93]私にとって世界は [00:38.91]テキストとテクスチャーで構成されるものだ。 [00:42.94]誕生から永眠する時まで [00:45.72]会話とは無縁だった。 [00:50.24]そんな人間が [00:51.54]こんなカタチで記録を残すのは不本意だが [00:54.77]仕方がない。 [00:57.24]彼女は多くの事柄を貪欲に学んだが [01:00.56]読み書きだけは、最後まで修得しなかった。 [01:06.74]私が生まれた時、既に西暦は失われていた。 [01:12.37]人類は末期を通り越し [01:14.75]後は永眠するだけのターンに差し掛かっていた。 [01:19.90]復興された第十二衛星都市が私の故郷だ。 [01:24.88]人口一万人をかろうじて維持する [01:27.76]優れた文明圏と言えるだろう。 [01:31.43]その年、第十二衛星都市での死亡数は1 [01:37.06]誕生数は0だった。 [01:40.65]かつてこの惑星では [01:42.67]一秒のうちに一人の命が失われ [01:46.01]三人の命が誕生していたと記録に残っている。 [01:50.76]マイナスよりプラスの方がやや上回る [01:54.38]それが人間の、種としての優位性だった。 [01:59.06]その優位性は、もはや見る影もない [02:04.48]反面、地上の環境問題は軒並み解決していた。 [02:09.68]人類が解決したのではなく [02:12.56]この惑星が長い忍耐のすえ持ち直した結果だ。 [02:18.59]太陽と水と空気は貴重なものになったが [02:22.16]依然として地に満ちている。 [02:25.44]かつてのような繁栄は望むべくもないが [02:28.70]繁殖するだけなら何の問題もない。 [02:32.11]にもかかわらず人口グラフが右肩下がりなのは [02:36.84]ひとえに、人間という種から意欲が失われたからだ [02:43.02]やる気と言ってもいい。 [02:45.85]進化の道を突き進むには燃料が必要で [02:50.04]人間はその燃料を使い切った。 [02:53.65]生命の例に漏れず [02:55.89]我々とて自己保存を基本としていたが。 [03:00.09]その基本装置を動かす為に必要なものがあるとは [03:04.03]誰も気付かなかったのだ。 [03:07.49]そういった熱量はひとりひとりのものではなく [03:11.66]種全体で消費するものだった。 [03:15.55]はじめから総量が決まっていたのだ [03:19.58]当然だろう。 [03:21.48]形而上のものであれ [03:23.67]この宇宙に無限の資源など存在しない。 [03:28.17]我々の宇宙は閉じており [03:30.86]最後には無に帰る事で [03:33.25]帳尻を合わせるのだから。 [03:36.42]それでも種を存続させよ [03:38.36]うと努力する人々がいた。 [03:41.13]私はその一員として [03:43.57]都市の住民権を与えられた。 [03:47.89]復興は大きく [03:49.94]蘇生と維持のセクションに分けられる。 [03:53.40]蘇生セクションは感受性や文明の復活を。 [03:58.07]維持セクションは文字通り [04:00.20]失われていくものを押しとどめる。 [04:03.05]それは技術の話でもあり [04:06.45]命の話でもある。 [04:09.23]自殺を未然に防ぐのが [04:11.87]維持セクションの主務だった。 [04:16.27]私は維持セクションに回された [04:19.79]人類を維持する為に娯楽は必要だ。 [04:23.58]ぶらさげられた人参としてではなく [04:26.47]文明の水準向上に [04:28.55]これほど有効な手段もない。 [04:31.86]通信、ネットワークは [04:34.49]人々が生きる上でもっとも重要で [04:37.36]かつ基本的な“娯楽”だった。 [04:40.50]私はその管理と [04:42.52]発展を任された最後の一人だ。 [04:46.86]私の生まれた年代は [04:49.50]遺伝子操作による優秀種 [04:52.63]デザインベビーが試された年代でもある。 [04:56.53]成功例はゼロ。 [04:59.06]彼らは生まれた直後 [05:01.02]自ら呼吸を止めて永眠した。 [05:05.13]もういい [05:06.56]そこまでして続けたくない [05:08.89]という人類の総意だと [05:11.42]ある科学者は嘆いたという。 [05:15.40]試みは次の段階に入った [05:18.28]意識の働きで心臓が止まるのなら [05:21.32]本人の意思では止まらない心臓を作ればいい。 [05:25.61]本当の意味で機械的な人間をデザインすれば [05:29.78]彼らは生きることを余儀なくされる。 [05:34.04]その試みは何件か成功した [05:37.70]多少の不具合……五感 [05:41.29]人としての感性に [05:43.11]何らかの障害を引き起こしたが [05:45.90]生物学的には間違いなく人間だった。 [05:49.69]そうであると私は聞かされている。 [05:53.97]ともあれ [05:55.23]飽くなき探求心 [05:57.18]不屈の精神の賜だ。 [06:00.29]人類がこの惑星で [06:02.11]もっとも栄えた理由の一つを。 [06:04.51]蘇生セクションのスタッフは [06:06.36]まだ維持していた。 [06:09.72]私は彼らのようにはなれなかった。 [06:14.94]音を、会話を知らない私にとって [06:18.45]世界はもっとシンプルであってほしかった。 [06:22.13]情報の海を広げる作業中 [06:25.22]宇宙開拓の名残を見付けた。 [06:28.98]帰ることを考えなければ [06:31.29]月への航路は幾つか残されていた。 [06:35.76]私が月を目指したのは [06:38.62]それだけの理由である。 [06:42.43]ロケットを修復し [06:44.45]造りかえ [06:45.97]自分の体も少しずつ [06:48.28]宇宙飛行に堪えられるよう調整した。 [06:52.17]復興を掲げながらも [06:54.47]病的なまでに他人に無関心な都市の人々は [06:58.63]私の作業に注意を払わなかった。 [07:02.75]役割さえこなしていれば [07:05.22]誰も私生活には干渉しないのだ。 [07:08.80]私は二度とは脱げない宇宙服に着替え [07:13.08]ロケットに乗る時でさえ [07:15.17]戸惑いは浮かばなかった。 [07:18.38]故郷に戻れない事への恐怖はない [07:22.12]宙に昇ってからの不安もない。 [07:25.87]月面都市に生命反応はないが [07:28.54]施設はいまだ稼働している。 [07:31.40]最低限の生活水準は保証されており [07:34.83]また、見積もりが甘ければ甘いで [07:38.07]愚か者が一人死ぬだけである。 [07:41.96]ロケットは地球の表面を二回ほど回ってから [07:45.89]ゆるやかに月の重力圏に入った。 [07:49.90]その過程で [07:51.48]かつて暮らしていた世界を見下ろす事になった。 [07:56.42]胸に飛来したものは強烈な罪の所在だ [08:02.58]私は人間を憎んでいる訳ではない [08:05.80]ただ、彼らと関わりを持ちたくなかっただけだ。 [08:13.00]人々の希望になるよう願われて生を受けたが [08:16.99]私は、自分の事だけで精一杯だった。 [08:22.02]私にはネットワークと [08:24.21]自分と、狭い部屋が一つあるだけでいい。 [08:29.58]音のない世界で [08:31.66]情報を目で追っていれば幸福だった。 [08:35.29]月でなら誰に邪魔をされることなく [08:38.58]ひとりで引きこもっていられるだろう。 [08:41.95]私は何を、誰を殺した訳でもない。 [08:47.54]ただ自分と、人間を見捨てただけ。 [08:52.21]何もかもが面倒になって [08:54.69]相互補助の繫がりを [08:56.99]物理的に断ったのだ。 [09:01.95]月面への到達には [09:04.38]多少の手間が必要だった。 [09:07.76]地球からの観測で判明していた事だが [09:10.97]月の大部分は氷の膜で覆われていた。 [09:15.83]月面に造られた七つの都市を守るようにできた [09:19.43]青い天蓋だ。 [09:21.98]地上から飛び立つ時 [09:24.13]もっとも手間を取らされたのが [09:26.24]この侵入経路の算出である。 [09:29.76]氷の傘の隙間にすべりこむ突入経路の計算に [09:33.89]一月を費やした。 [09:37.02]個人的な所感だが [09:39.20]計算にとり組めばとり組むほど [09:42.33]この氷の用途は測れなかった。 [09:45.68]いかなる意図で造られたものか [09:48.20]責任者がいるのなら問いつめたいと [09:51.02]不満をこぼしたほどだ。 [09:53.74]もっとも [09:55.36]その不満を聞き届ける者は [09:57.75]もういない。 [10:00.07]月の表面に降り立ち [10:02.14]都市部に入る。 [10:04.06]生命反応はない [10:06.32]七つの都市は [10:07.74]そのすべてが墓標だった。 [10:11.15]電気の明かりだけが [10:12.88]灰色のモニュメントにまたたいている。 [10:16.71]上空を見上げると [10:18.60]厚い氷壁の中で太陽光がゆらめいている。 [10:23.90]ヒトのいない建物は岩礁のように [10:26.96]仄暗いブルーに沈みこんでいる。 [10:30.84]これでは月面というより海底だ。 [10:35.83]ふと、宇宙服に包まれた手を見下ろした。 [10:41.22]月面での生活用にふくれあがったソレは [10:44.48]ブリキの潜水服そのものだ。 [10:47.92]私は昇ってきたつもりで [10:50.61]月の底に落ちてきたらしい。 [10:54.62]ともあれ、まずは資源の確保が重要だ。 [10:59.98]月の第五都市マトリを拠点にして [11:03.22]月の裏側に向かった。 [11:06.37]七つの都市に水素を [11:07.87]提供する炉心がある為である。 [11:11.23]しかし [11:12.99]私はそこで [11:15.04]一度だけ自分の正気を疑った。 [11:20.03]地上からでは決して [11:21.28]観測できない月の裏側は [11:24.00]灰色の森だった。 [11:27.38]石灰で出来た樹木 [11:29.87]ソラを覆う分厚い氷。 [11:32.44]その中心 [11:34.55]主要元素である [11:36.10]水素、炭素、酸素、窒素を提供する炉心に [11:41.77]まさかこんなモノがいようとは。 [11:45.51]唐突にひとつの童話を思い出す [11:49.24]最後に涙になって溶けるのは [11:52.12]アンデルセンの人魚姫だったか。 [11:57.03]それは限りなく人間に近い造形をしていた。 [12:02.35]青い光に照らされた生身の少女 [12:06.19]亜麻色に輝く髪と [12:08.74]滑らかな石質の肌。 [12:11.51]白い、一点の汚れもない雪の花を連想させる。 [12:18.17]身じろぎもせず [12:20.20]穏やかな瞳だけが [12:22.38]眩しそうに私を見つめていた。 [12:26.26]少女は美しく、また、ヒトではなかった。 [12:33.05]どのような繊維で造られているのか [12:35.81]少女は古い着物を着せられていた。 [12:40.20]そう、着せられている [12:43.99]決して自ら着飾ったものではないだろう。 [12:49.17]少女は湖底に座り込み [12:51.48]両手を左右に [12:53.02]ゆったりと地面に下ろしていた。 [12:55.77]その先端は存在しない。 [12:58.71]少女の両手は月の大地に融け [13:01.92]直結している。 [13:04.87]彼女の腕は [13:06.53]肘のあたりから黒く変色し。 [13:09.48]鉱物の鋭さをもって [13:11.70]大地と一体化しているのだ。 [13:15.23]さながら [13:16.97]地面から伸びた柱のようだ。 [13:19.95]その腕で服を着る事はできない。 [13:23.69]これはのちに知った事だが [13:25.89]彼女の研究者の一人が [13:28.36]むき出しでは可哀想だと [13:30.30]ドレスを着せたらしい。 [13:32.94]コレを人間扱いする方が [13:35.04]倫理に反すると [13:36.90]仲間からは軽蔑されていたようだが [13:40.03]私も同じ意見だ。 [13:43.87]ソレは囚われているとも [13:46.94]守られているとも取れた。 [13:50.12]醜いものと [13:51.75]美しいものが混ざり合った姿。 [13:57.09]少女は私と同じく [13:59.43]突然の来訪者を警戒しているようだった。 [14:03.31]私の第一印象は言うまでもなく [14:07.03]「待ってくれ [14:08.43]話が違う [14:10.00]なんだって月面に宇宙人がいる?」 [14:13.96]月に来れば [14:15.43]ひとりきりになれると思ったのに! [14:19.87]訂正すると [14:21.61]少女は宇宙人ではなく [14:24.16]れっきとした地球圏の生命だった。 [14:28.37]月面都市に残った資料によると [14:31.55]彼女は星を効率よく運営する為の [14:35.12]入力装置だった。 [14:38.13]星を一つの生命として捉え [14:40.91]その魂を摘出し。 [14:43.55]珪素生命として安定させたものだという [14:48.03]魂と書かれているが、要するに脳だろう。 [14:53.60]惑星には肉体と心臓にあたる部位はあるが [14:57.73]脳にあたる器官が存在しない。 [15:01.48]月の技術者たちは [15:03.51]脳を人工的に造る事で。 [15:06.36]この星を自在に運行する [15:08.28]命令体を作り上げたのだ。 [15:11.53]そのような大それた生き物に [15:13.69]近づくのは抵抗があったが。 [15:16.38]生存に必要な物資は [15:18.66]彼女の周囲から摘出される。 [15:22.38]水素も電源も [15:24.58]彼女が居る森に [15:25.96]直接取りに行かねばならない。 [15:29.01]自然、どうしても目が合ってしまう。 [15:33.39]月に水が湧くのはここだけだ。 [15:37.38]十二時間ごとに補充しに行き [15:39.94]一時間ばかり [15:41.38]少女の傍で森を眺める事になる。 [15:45.91]少女は一歩も動かず [15:48.18]また [15:49.20]こちらとコミュニケーションを [15:50.80]図るような事はなかった。 [15:54.18]珪素生命 [15:56.50]――石で出来ている彼女は。 [15:58.75]我々からすれば [16:00.49]タイムスケールの違う [16:02.09]永劫不滅の生命だ。 [16:05.02]私のように不完全な命ではない。 [16:09.90]百十二回目の補充。 [16:12.95]単純な労働だが苦痛はない。 [16:16.31]どうにも [16:17.64]私はこの森が気に入っているらしい。 [16:22.73]地球の森は生命力が強すぎて [16:25.70]私には毒がありすぎた。 [16:28.84]この森は清潔だ [16:31.37]何より音がない。 [16:34.39]この近くに施設があったなら [16:37.01]迷わず移住していただろうに。 [16:40.94]タンクを地表に打ち込んで [16:43.12]必要なだけの元素を摘出する。 [16:47.32]その間 [16:48.60]私は少女の傍に座って [16:51.14]情報を提供する。 [16:54.83]少女が望んだ訳でもないし [16:57.53]そもそも私たちに意思の疎通はない。 [17:01.67]これは私が自発的に行う等価交換だ。 [17:06.92]私が彼女に返せるものは情報だけなので [17:10.63]物語を聞かせる事にした。 [17:13.52]完全な自己満足である。 [17:17.14]「……しかし、なんだな。 [17:20.62]人のカタチをしているからといって [17:23.42]人間の文化を押しつけるのは [17:25.11]傲慢ではないだろうか」  [17:28.73]待ち時間の手持ち無沙汰から [17:31.01]私は少女のドレスに手をかけた。 [17:34.45]姿が同じというだけで [17:36.73]人間の都合を押しつけるのは [17:38.92]どうかと思ったのだ。 [17:42.13]彼女も迷惑だろうと [17:43.88]ドレスを脱がしにかかったところ。 [17:47.12]気が付くと [17:48.46]腹部に強烈な衝撃が走り抜けた。 [17:52.52]動かないはずの少女の腕が [17:55.22]滑らかに稼働した歴史的瞬間だった。 [18:00.72]三キロメートル近く大気を滑っただろうか [18:04.66]マスドライバーもかくやといったところ。 [18:08.73]岩山にひっかからなかったら [18:10.96]間違いなく虚空に飛び出していた。 [18:14.68]人間ではない知的生命体は [18:17.26]二種類に分けられる。 [18:19.46]エイリアンとインベイダーだ。 [18:23.67]彼女が宇宙人ではない事は判明していたが [18:26.92]侵略者でもない事を祈るしかない。 [18:31.71]「昨日は申し訳ない事をしたが [18:34.32]そちらも反省してほしい。 [18:36.96]ここが地上なら [18:38.70]今ごろ君は檻の中だ。 [18:41.45]君には少し [18:43.14]人間がどれほど脃いかを学んでほしいと思う」 [18:48.06]四十八時間後。 [18:50.77]私は新しい作業用車両を調達して [18:54.14]少女と対峙した。 [18:56.56]正直危険に満ちていたが [18:59.82]十二時間ごとに命のやりとりをするのは遠慮したい。 [19:04.40]交渉による平和的な関係を築くべきだ。 [19:09.38]会話はできずとも [19:10.98]意向を伝える程度はできるだろう [19:13.37]と考えての事である。 [19:16.17]月の住人たちが [19:17.50]少女を通じて星を運営していた以上 [19:20.86]彼女には外部入力機能があるはずだからだ。 [19:25.91]手振りで [19:26.99]先ほどの行為はもうしない、と示すと。 [19:30.84]彼女は一時間ほどかけて首を縦に動かし [19:35.49]こちらの謝罪を受け入れた。 [19:39.39]かくして [19:40.63]インベイダー危機は去った。 [19:43.39]少女とはこれからも [19:44.88]十二時間ごとに顔を合わせる事になるが [19:48.27]人間ではないので問題はない。 [19:53.16]「ヒトが死を怖がるのは [19:55.15]死にたくないからじゃない。 [19:57.57]増えなくてはいけないから [19:59.83]その前に死ぬことを怖がるんだ」 [20:03.59]月の森で [20:05.24]私は一方的に話を聞かせた。 [20:09.40]人間がなぜ死を禁忌するのか [20:13.14]生命は自己保存を原則とする。 [20:17.41]我々の体の設計図である遺伝子は核酸 [20:21.77]即ちDNAだ。 [20:25.41]紐状の二重螺旋で知られるこの暗号は [20:28.94]完全な対構造になっている。 [20:32.90]開始と終点を描いた紐を [20:35.68]上下逆に合わせたものだ。 [20:38.88]これらは一本で生命の設計を [20:42.28]もう一本がその複製を担っている。 [20:46.28]どちらかが失われても [20:48.57]残ったもう一本が存在を受け継ぎ [20:51.77]生命活動を続けていく在り方だ。 [20:56.14]我々は根本からして [20:58.43]“自分を残す”ことを最優先に設計されている。 [21:04.12]「増えること。 [21:05.96]子供を作る [21:07.56]ということは自分の遺伝子の引き継ぎ [21:11.17]永続を意味するからね。 [21:13.60]本来 [21:14.88]生き物は子供を作った段階で用済みになる。 [21:19.25]より優れた自分の複製が生まれた以上 [21:22.35]古い遺伝子を生かすのは資源の無駄だ」 [21:27.23]自分にあった異性を選ぶ [21:30.08]より美しい配偶者を求めるのは [21:33.08]心による働きではない。 [21:36.10]自分の複製に [21:37.83]より優れた遺伝子を配合するための本能だ。 [21:43.22]我々は遺伝子の運び屋にすぎない。 [21:46.60]人間に感情があるのは [21:48.97]それがもっとも効率がよく [21:51.43]また長続きするシステムだからだ。 [21:56.11]かつて五十億もの繁栄を遂げた鳥がいた [22:00.25]高等生物では敵いようのない数。 [22:04.40]自然界において [22:06.15]人間サイズの生き物は [22:08.10]そこまでの繁殖はできない。 [22:11.06]しかし、結果はこれを上回った。 [22:15.53]五十億の鳥を食料として消費したばかりか [22:19.46]最後には彼等の数すら上回ったのだ。 [22:24.57]感情、知性は [22:26.62]人生を豊かにする為のものではない。 [22:30.66]種が覇権を握る為の [22:32.88]もっとも強い武器に他ならない。 [22:37.27]感情のない機械ではこうはいかない [22:40.74]機械は効率だけを良しとする。 [22:43.95]最適な状態に行き着けば [22:46.66]そこで進化を止めてしまうだろう。 [22:50.75]「生命は増え続けなければならない。 [22:53.89]それを済ますまで [22:55.52]死が恐ろしくて仕方がない。 [22:58.16]しかし子供さえ育ててしまえば [23:01.81]死の幻想から多少は解放される。 [23:05.49]自分の役割を終えたからね [23:08.31]あとは好き勝手に生きればいい。 [23:11.41]種の存続により尽くすのも [23:14.47]利益に走るのも、個人の自由だ」 [23:18.86]もっとも [23:20.65]地上の人々はその例には当てはまらない。 [23:25.56]人類は心が強くなりすぎたのだ。 [23:29.27]“あがり”を宣言され [23:31.30]ほとんどの未来を手に入れた彼らは [23:34.16]種の存続に縛られなくなった。 [23:38.14]自己保存も自己改革も他人事。 [23:42.71]彼らにとって繁殖は [23:44.70]本能や義務ではなく [23:46.98]すでに趣味の領域に変化している。 [23:51.40]「それでもまだ [23:53.33]趣味であるうちは救いはある。 [23:56.49]それさえなくしてしまったら [23:59.02]私たちは生命とは呼べなくなる」 [24:03.77]少女はあいかわらずピクリとも動かない [24:08.80]こちらの話が伝わっているかはどうでもいい。 [24:12.50]補充した物資分のお代は話したので [24:15.65]早々に森を後にする。 [24:19.36]月の森は変わらずに無音で、清潔だ。 [24:24.98]つい足を止めて見入ってしまい [24:28.09]振り返ると [24:29.62]少女がかすかに手をあげていた。 [24:33.85]目の前にいる羽虫を摑むような動作だった [24:37.97]後に、あれは三十分ほどのタイムラグによる動作と判明したが。 [24:44.32]この時の私には [24:46.41]彼女の思惑は測れなかった。 [24:50.46]「無駄な消費はよくないよ [24:53.27]このタンク一杯分だけでいいんだ。 [24:56.41]無制限に使っているけど [24:58.45]底をつく可能性だってある。 [25:01.38]星が枯渇したら [25:03.62]君だって共倒れになるんじゃないか?」 [25:07.81]百八十回目の補充。 [25:11.85]ここのところ元素の生成量が増しているので [25:15.22]少女にそれとなく注意した。 [25:18.76]驚いたのは [25:20.27]そのおり [25:21.48]少女が残念そうに目を伏せた事だ。 [25:25.42]こちらの言葉が伝わっている [25:28.24]なにより、意思を伝える術を学習している。 [25:33.12]彼女は私の話からは何も学ばなかったが [25:37.91]独自に、私を観察する事で [25:40.44]彼女なりの成長を遂げているらしい。 [25:44.70]その時は驚きばかりで [25:47.10]なぜ、という疑問は浮かばなかった。 [25:51.97]「手の次は足ときた [25:54.20]自立してもいいことはないと思うけど」 [25:58.20]二百四十回目の補充の頃 [26:01.07]少女は立ち上がれるようになった。 [26:04.44]地表と一体化していた手足は [26:07.28]これで本当に人間と同じものになった。 [26:12.12]まだ立ち上がる事しかできないが [26:15.28]あの様子では歩きだす日も近いだろう。 [26:19.85]私にとっては小さなニュースだ。 [26:22.73]それより [26:24.21]来る時に見かけた [26:25.72]樹木の破損の方が気にかかる。 [26:29.13]この森はお気に入りなのだ。 [26:31.85]ところどころ虫食いでは [26:33.69]精神衛生上よろしくない。 [26:37.43]樹木の補修に没頭する。 [26:40.83]振り返ると [26:42.28]少女は満足げに笑っていた。 [26:45.70]我が事のように喜んでいるようだった。 [26:49.85]森の手入れが [26:51.44]スケジュールに組みこまれた。 [26:55.02]「不用意に近寄らないように。 [26:57.78]代えの宇宙服はないんだ [26:59.95]壊されたら死ぬしかない。 [27:02.58]ああ、また転んだ。 [27:05.14]ヒトのように歩きたいのなら [27:07.53]膝関節を作りなさい」 [27:10.44]彼女は人間と違い [27:12.68]内部に骨格というものがない。 [27:15.79]骨で器官を覆っている [27:18.84]我々とは内と外が逆なのだ。 [27:23.00]そう言う私も [27:24.87]今では体の外側を宇宙服で覆っているので [27:28.84]彼女と同じような在り方だ。 [27:32.37]助言をしながら [27:34.15]私は彼女に接触を禁じた。 [27:37.45]安全性の問題だが [27:39.87]あの指に触れられたくはなかったのだ。 [27:44.09]歩行するようになって [27:46.42]ドレスは本来の役割を果たすようになった。 [27:50.67]石灰の樹木の合間をすり抜ける姿は [27:54.43]まるで [27:57.83]“これで、ヒトのように見えるでしょうか?” [28:02.59]無音の筈の森に、雑音が響いた。 [28:07.97]なんだろう [28:09.82]まさか地上からの通信でもあるまい。 [28:13.09]宇宙服の故障だ [28:15.23]都市に戻ったらチェックしなければ。 [28:18.99]少女はまだ、しつこく木々と戯れている。 [28:24.21]うまく歩けた感想を求められているのだな [28:27.16]と私は読み取った。 [28:30.31]「そうだな。 [28:32.49]どちらかというと [28:34.47]君の体は珊瑚のようだ」 [28:38.16]どうでもいい独り言に [28:40.33]少女は跳ねるようにドレスを翻した。 [28:46.37]地球時間にしておよそ六ヵ月 [28:49.06]私は彼女と過ごした。 [28:52.44]ここのところ [28:53.66]元素の生成率が低下している。 [28:57.21]私ひとりが生きていくには十分だが [29:00.23]少女の負担になると思い [29:02.68]末端の都市から電源を落とす事にした。 [29:06.29]ネットワークはとっくに断っている [29:10.29]都市の効率化ができたら再開すればいい。 [29:15.11]食料も熱量も [29:17.32]余分な機能をカットしていけば [29:19.83]タンク一杯分は必要ない。 [29:22.82]コップ一杯分で [29:24.68]十二時間活動できる。 [29:28.48]月の森も [29:30.16]その大半が砂に還っている。 [29:33.73]この森が少女の生存可能域なのだろう。 [29:38.01]森の衰退と共に [29:40.33]彼女の活力は失われていくようだった。 [29:44.74]“ごめんなさい。 [29:46.75]最近はうまく星を動かせなくて” [29:51.14]少女が口を動かす [29:53.90]真空に伝わる波。 [29:57.93]宇宙服の故障ではない [30:00.67]彼女は声帯まで獲得していた。 [30:04.35]私には分からない [30:06.48]なぜ背伸びをする [30:08.36]と問いただすと。 [30:10.31]“貴方を知りたいのです。 [30:12.71]貴方に触れたいのです” [30:16.33]少女はすがるような目をして [30:18.86]声をあげた。 [30:21.06]録音したが [30:22.70]私には解読できない。 [30:25.87]少女の声はどの言語にも該当しない。 [30:30.94]記録した音をテキストに置き換えても [30:33.97]そこには文字の羅列があるだけだ。 [30:38.17]私にとって [30:39.90]音による言葉は [30:41.64]どれもが異国の唄と同じだった。 [30:45.77]「君は成長を続けているな。 [30:49.30]前にも話したけれど [30:51.49]自己保存と改革は生命の義務であり証だ。 [30:57.11]しかし、君の進化はいい方向には進んでいない [31:02.04]なんだってそんな、不便な体を」 [31:06.25]“そんな小難しいコトはどうでもいいのです [31:10.11]ただ貴方と話したいだけなのです” [31:14.98]少女は胸に手を当ててこちらを睨む。 [31:18.61]まるで、自分の体はここにある [31:21.40]と言いたげな視線だった。 [31:24.97]この時の私の心境は [31:27.68]今でも解析できない。 [31:31.29]背中から切りつけられたような冷えた痛みと [31:34.91]心臓をじわりと握りしめられたような [31:38.48]小さな熱。 [31:41.32]星を見下ろしていた時に感じた [31:44.42]不可思議な心の動きと同じだった。 [31:49.08]少女のそれは [31:50.97]心と呼ばれる生体機能だ。 [31:55.03]彼女には感情が生まれていた。 [31:58.64]もうとっくに気付いていた [32:01.20]目を背けていただけだ。 [32:04.27]この生命は環境に合わせて成長するのではなく [32:08.46]自身の願いを軸に成長する道を選んだのだと。 [32:14.46]「そうか。君は、ヒトのカタチになりたいんだな」 [32:21.30]彼女は力強く頷いた。 [32:25.53]伝え合う事のできない我々にとって [32:28.63]たった一度きりの相互理解だったと思う。 [32:33.72]彼女が私に危害を加えなかった理由は [32:37.53]私の姿を参考にしようと思ったからだ。 [32:41.65]彼女が私に笑いかけるのは [32:44.64]私に向けられていた好意は [32:47.56]しかし、愛情によるものではない。 [32:52.11]単に、この少女が他の人間を知らないだけだ。 [32:59.13]時間は過ぎていく [33:02.31]彼女の変異はもう止めようがない。 [33:06.53]少女は炭素生命へと変わろうとしている。 [33:11.10]その先にあるものは不可逆の [33:13.76]種としての脆弱化だ。 [33:17.08]月の資源も失われつつある。 [33:20.69]彼女が星の頭脳体としての機能を失う事で [33:24.59]月は死の世界に戻ろうとしている。 [33:29.27]ハロー、キャプテン?アームストロング。 [33:33.49]人類で初めて月に行った彼が降りる前の [33:37.60]人間が住むべきではない、正しい姿に。 [33:43.14]少女は死に向かって転がり始めた。 [33:47.76]彼女がヒトに近づけば近づくほど [33:50.76]星は彼女を見放すのだ。 [33:55.24]彼女がヒトに焦がれれば焦がれるほど [33:58.83]私は熱を失うのだ。 [34:02.87]……ああ、それでも。 [34:06.94]あの美しい石が生命である事を望むのなら [34:11.32]それを叶えてやらなければ。 [34:16.16]ロケットの修理に着手する。 [34:19.48]今のうちに [34:20.68]できるだけの資源を確保しておく。 [34:24.70]七つの月面都市は [34:26.69]そのすべてが海の藻屑となるだろう。 [34:30.33]私は自分にできる事をする。 [34:34.20]もちろん自己保存が最優先だ。 [34:37.26]そこを間違っては [34:39.04]教授したものとして [34:40.72]彼女に合わせる顔がない。 [34:43.98]少女は日の八割を睡眠に費やしていた [34:48.70]眠る少女を抱きかかえる。 [34:51.92]あれほど触れる事を禁じていたが [34:54.79]やはり、宇宙服越しでは何の感触もない。 [35:00.25]だから、この数値だけを覚えていよう。 [35:05.19]無重力の海では、数値だけが確かな記録だ。 [35:11.97]森から都市に連れ出したところで [35:14.78]少女は目を覚ました。 [35:17.32]意思は通じずとも [35:19.26]何をしようとしているかは理解できるのだろう。 [35:23.09]少女は抵抗したが [35:25.15]もう以前ほどの力はない。 [35:29.29]少女はしつこく暴れた後 [35:31.66]睡眠に戻った。 [35:34.68]一人乗りのロケットに彼女を寝かせる。 [35:38.78]なぜか、五分で済むことに [35:41.75]何倍もの時間を要した。 [35:45.46]安全性は確保したが [35:47.61]後で恨まれるだろう。 [35:50.42]なにしろ空中分解を前提にしたアプローチだ。 [35:54.65]成層圏にさえ入ればいい [35:57.85]あとは脱出ポッドで海に落とす。 [36:01.19]弱っているとはいえ [36:03.13]彼女はいまだ星の分身だ。 [36:06.46]その体、外殻は即座に環境に適応する。 [36:12.64]多少は苦痛だろうが [36:14.61]そこは大目に見てほしい。 [36:17.84]さて、発射まであと二分程度。 [36:23.63]月に残った資源の八割を消費する [36:26.91]一大プロジェクトだ。 [36:29.17]もともと彼女のものなので [36:31.80]惜しいという気持ちもない。 [36:35.53]センサーが波を拾う。 [36:38.28]ロケットの中で [36:39.90]壁を叩く音がする。 [36:43.24]覗き窓には [36:44.73]もうくすんでしまった [36:46.43]亜麻色の髪が見えた。 [36:49.99]やる事もないので [36:52.12]いつも通り [36:53.71]私は彼女に話しかける。 [36:57.35]「落ち着いて [36:59.63]君に、私はもう必要ない。 [37:03.33]その心は人恋しいだけなのです [37:08.02]ですから、あの星に落ちなさい [37:11.61]あそこには君の望む全てがある」 [37:16.83]“違うのです [37:19.40]私は人間に恋をしたのではありません [37:23.08]貴方に恋をしたのです” [37:26.70]「気遣いはいらない。 [37:29.22]これから僕は [37:30.95]かつての君と似たようなものになる。 [37:35.06]資源が途絶える以上 [37:36.98]人間としてはやっていけないからね。 [37:40.60]もともと [37:41.87]そういう風になる予定だったんだ、僕は。 [37:46.43]だから [37:48.26]以前までの君と同じく [37:51.02]寂しくはなくなるよ」 [37:54.03]“それも違うのです [37:56.67]それではいずれ [37:58.31]貴方の方が人恋しくなる” [38:02.40]唄は、私には分からない。 [38:07.83]それでも不思議と [38:09.29]不快ではない波だった。 [38:13.25]壁を叩く音は強くなる一方だ。 [38:17.76]まさか突き破ってこないだろうな [38:20.53]と思って、私はつい笑ってしまった。 [38:26.48]私は計画の中止を懸念したのではなく [38:30.75]そんな事をしでかした場合の [38:33.39]彼女の健康を案じたのだ。 [38:37.30]普段の私からは考えられない行為 [38:40.64]いや、それこそ間違いだ。 [38:44.50]この星にきてからずっと [38:46.69]自分はあの少女の為に活動してきた [38:50.71]あの少女を想わない日はなかった。 [38:50.91]だから別に [38:56.49]今の心の働きは珍しい事でもない。 [39:01.59]自分がそうでありたいと願った [39:04.65]この星で繰り返してきた [39:07.51]忘れがたい日常だ。 [39:11.26]「……ああ。 [39:13.10]以前、生命の定義の話をしたね。 [39:17.88]増えることを放棄したものは [39:20.30]生命ではないと [39:22.77]その通りだ。 [39:25.55]君が生命になるというのなら [39:28.56]子孫を残さなければいけない」 [39:31.98]“待ってください。 [39:33.92]せめて最後に [39:35.63]一度だけでも [39:37.52]貴方と話がしたいのです” [39:40.95]この少女を地球に落とす判断は悪だ [39:45.68]人類にとどめをさす行為かもしれない。 [39:49.60]が、もともと私の人類愛は故障している。 [39:55.35]だからこそ、こんな世界にやってきた [39:59.97]だからこそ、こうやって失う時にしか [40:04.58]心の所在に気付かなかった。 [40:08.30]罰のように思い出す [40:11.51]私はそういう人間だったのだと。 [40:17.22]「人間がイヤで [40:19.59]何もかもを見限って [40:22.05]月に昇ってきたのです。 [40:25.89]そんな私が [40:28.04]人を愛する訳にはいきません」 [40:32.81]多くの人々と同じ [40:35.53]弱く、身勝手な人でなし。 [40:40.17]そんな機械に [40:42.55]他人を思いやる機能はないとしても [40:49.88]「――でも、君に恋をした」 [40:56.70]幸福の意義など考えずに [40:59.76]貴方には穏やかであってほしいと [41:02.90]身勝手にも願ったのだ。 [41:07.35]目を覆う光と熱 [41:11.06]ロケットは尾を引いて [41:13.39]暗い星に落ちていく。 [41:17.01]舟は虚空に。 [41:20.45]私はそれを [41:22.24]レンズ越しに眺めている。 [41:27.86]星が去っていく [41:31.28]君が去っていく。 [41:35.37]私は今 [41:37.91]かつてないほど人間的だ。 [41:42.65]そうか。 [41:45.88]恋を知る為に [41:48.23]私は月に昇ったらしい。 [41:51.45]‭ [41:54.12](四) [41:56.34]今年の寿命も数えるほど [42:00.09]十二回目の満月の夜。 [42:03.40]あと十日足らずで今年は用済みで [42:06.45]また、あてのない一年をはじめていく。 [42:11.39]わたしは高台から [42:13.42]三日月に灯る海岸線を眺めている。 [42:17.69]今夜は一段と明るい海 [42:21.13]吹く風は温かくも冷たくもない。 [42:25.94]冬という季節は [42:27.82]この島には無縁のモノなのだ。 [42:31.99]「空に水、水に空。 [42:35.20]月の空には砕け散った海がある」 [42:40.47]一説によると [42:42.39]この島に緑が蘇ったのは [42:45.46]島の近くに隕石が落下してからだという。 [42:50.59]その後 [42:51.97]月の珊瑚と呼ばれる [42:53.83]新しい海洋世界ができあがった。 [42:58.02]ちなみに最初のおばあちゃんは [43:00.38]亡くなる間際 [43:02.06]海に入ったまま戻ってこなかった。 [43:05.95]月のいちばん見える夜 [43:08.45]珊瑚が光るようになったのは [43:10.87]それ以来という話。 [43:14.24]「星はまたたく [43:16.11]海はさざめく [43:18.21]人恋しくて珊瑚は謳う。 [43:21.35]わたしたちは海月みたいに [43:23.84]ふわりふわりとその日ぐらし」 [43:28.24]「おや。今夜はまた、一段と元気そうです」 [43:33.76]ブリキの彼は例の小舟と共に現れた。 [43:38.11]かすかな光を撒いて飛ぶ姿は [43:40.86]ちょっとだけ流星のよう。 [43:44.42]わたしが元気なのは [43:46.44]月の満ち欠けの影響だろう。 [43:49.11]ちゃんとご飯も食べているし [43:51.83]気持ちの問題もあって [43:53.66]今夜は特に調子が良い。 [43:56.39]反面、彼はやや歯切れが悪い [44:00.67]訊ねてみると [44:02.27]そろそろ食料が切れるのだという。 [44:06.42]「はいこれ。わたしの本、受け取って。 [44:10.18]その代わり、あの貝殻はいただくわ」 [44:13.92]「それは良かった。 [44:15.72]最後にいい取引ができました」 [44:19.57]舟の甲板がお鍋のフタみたいに開く [44:24.69]彼は自分より大きな本を抱えて [44:27.58]ちまちまと中に入っていく。 [44:30.76]わたしはその隙に [44:32.49]ちょっとだけ覗き見る。 [44:35.26]中は別世界に繫がっていた。 [44:39.17]わたしの部屋より広そうな空洞に [44:41.94]一面の金銀財宝。 [44:44.69]その真ん中に [44:46.18]彼は本をちょんと置いた。 [44:48.78]少しだけ恥ずかしく [44:51.20]少しだけ誇らしい。 [44:54.67]「最後?貴方、もう島にはやってこないの?」 [45:00.32]「島というより [45:02.11]こちらに渡ってくる事自体が難しいのです。 [45:05.98]こう見えて、だいぶん無理をしていまして [45:09.55]地球の重力は私には重荷なのです。 [45:13.28]この機体も軽量化したものですし」 [45:17.13]わたしは息を吞んだ。 [45:20.34]死を迎える今年のように [45:23.18]彼もまた [45:24.77]回顧録に仕舞われる事なく去っていく。 [45:29.36]別段、嘆くこともない。 [45:32.83]いまの人類にとって一期一会はスタンダード [45:37.15]わたしだって情の薄いと評判の一姫さまだ。 [45:42.71]そんなコトで躍起になって [45:44.87]引き留めたりこだわったりするのは [45:46.76]自分らしく――いや。 [45:51.16]そんなところまで [45:52.83]先人の轍を踏んでどうする。 [45:55.69]カタコトでも [45:57.20]わたしたちは話し合うコトができるのだ。 [46:01.67]「相談事があるの [46:03.70]意見を聞かせてくれないかしら」 [46:07.03]挑むような気持ちで言うと [46:09.57]彼は真面目に向き合ってくれた。 [46:12.97]といっても [46:14.31]相談事なんて一つもない。 [46:17.21]あれこれ考えたあげく [46:19.43]求婚について相談した。 [46:22.21]島のしきたり [46:24.29]本土からやってくる殿方 [46:25.97]との御簾越しの逢瀬。 [46:28.58]常識はずれの交換条件を突きつけるコトを [46:31.97]どう思うか。 [46:34.51]彼は小さな両手を組んで [46:37.04]なるほど、と納得声。 [46:40.79]「貴方は誠実なのです [46:43.10]そういうヒトを知っています。 [46:45.41]確かな証がないと [46:47.21]ヒトを思いやるコト [46:48.40]も欺瞞だと感じてしまう。 [46:50.91]それは貴方が [46:52.97]自分より相手の人生を [46:54.47]よく考えている結果でしょう。 [46:57.49]貴方の愛は [46:59.22]とても人間的なのですね」 [47:02.66]月が眩しい。 [47:05.44]わたしは何分もかけて [47:07.83]目の前にいる鳥を捕まえるような [47:10.70]羽虫を摑むような動作で [47:13.17]手を持ち上げかけて、押し止めた。 [47:18.64]「そろそろ時間です [47:20.52]この周期を逃すと帰れなくなる。 [47:23.91]読み書きは文化の基本なので [47:26.21]できるだけ長く覚えておいてください」 [47:30.01]「そうね。次はもっとうまくなっているわ」 [47:34.55]「次?」 [47:36.09]「ええ。もう一冊書く予定ができてしまったから [47:40.89]さっきの本に新解釈をまぜたものだけど」 [47:44.97]本当のことだ [47:47.40]あの貝殻の声を聞いた以上 [47:50.35]新しい物語を残さないと。 [47:54.06]「魅力的な案件だ [47:56.08]商売上手ですね。 [47:58.72]ちなみに [48:00.11]代金はどれほどでしょう」 [48:02.83]「月のサカナを用意できる?」 [48:06.16]誰もが逃げだす無理難題。 [48:09.48]その困難さを空想ではなく [48:12.60]現実として知っている彼は。 [48:15.75]「サカナというのは [48:17.42]昔の海にいた生命ですね。 [48:20.55]ふむ、月に海を作るのはたいへんそうだ。 [48:24.94]私には荷が重いですが [48:27.38]それで貴方と取引ができるのなら [48:30.14]損ではないと判断しました」 [48:33.53]甲板から、にょっきりと舵が伸びる [48:37.47]彼は舵をにぎって、西の空に船首を返す。 [48:43.47]「そうだ。珊瑚の真相は分かりましたか?」 [48:47.79]「ちっとも。 [48:49.43]でも、おばあちゃんの願いは叶ったみたい」 [48:54.46]その話については、新しい本の中で。 [49:00.06]「良かった。それを楽しみに、難題を解くとしましょう」 [49:06.32]それでは、と残して、小舟は虚空へと飛んでいった。 [49:13.00]明日の夜には十六夜の月を横切って [49:17.30]遠い空に落ちていくのだろう。 [49:20.95]ふと、美しい声を聞いた [49:25.85]貝殻にあった唄が記憶と共に蘇る。 [49:31.01]あれから何百年 [49:33.83]彼と彼女は永遠の没交渉。 [49:38.69]月に咲いた花は地上に落ちて [49:41.51]平凡なモノになったけれど [49:43.91]多くの種を残した。 [49:47.03]彼の教えを叶えるように。 [49:50.43]愛は趣味だと彼は言ったけれど [49:53.57]本能より優れた趣味もあるらしい。 [49:57.36]だからこそ人々は [49:59.46]今まもしつこく生きている。 [50:03.76]「ああ――」 [50:06.14]珊瑚が光る理由なんて [50:08.59]それだけのコトに違いない。 [50:12.30]最後まで分かり合えることは [50:14.89]意思を伝え合うことはなかった。 [50:18.30]一方通行の恋路 [50:21.17]ひとりよがりの決断。 [50:24.06]でも、互いの幸福だけを祈っていた。 [50:29.96]それで残るものがあるコトを [50:32.58]彼と彼女は信じていなかっただろうけど。 [50:38.08]「なんて、幸せな人たちだろう」 [50:43.70]彼女の声を口ずさむ [50:46.51]懐かしい歌を思い出す [50:50.16]触れあえずとも命は遠いそらの彼方に。 [50:57.95]光る海、謳う珊瑚。 [51:02.79]――今も、貴方に恋をしている。